vivid clock 2


「うぉーいゾロゾロッ、見つかったぜ仕事!」

翌日、早朝に時計屋を出て行ったサンジは、その午前中に景気良く笑顔で戻ってきた。そして戻るなり店のガラスケースを確認すると、安心したように息を吐く。

「良かった、まだ売れてねェな」

彼のお目当てはもちろんあの懐中時計だ。
長年売れるアテなどなかった代物が昨日今日に売れてしまうはずはなく、当然のように今もそこにある。しかも今日はまだ一人の客もなくて、懐中時計どころかベルトのひとつも売れていない状態なのだが、ゾロは黙っていた。

「あそこのオッサンいいって言ってくれたか」
「おおよ!俺様の腕を見て惚れ込んじまってよ、むしろこっちから頼みたいって」
「いつから働く?」
「午後から!」

それはまた急な。
ゾロは浮かれるサンジについ苦笑して、お袋にも報告してこいと促した。

「マドモアゼル!聞いてくれ、俺仕事が見つかったんだ!」
「まぁまぁ、良かったねェサンジくん」

そんな声を背中で聞きながら、ゾロはガラスケースに肘を付いた。
昨日あのサンジという男の話を聞き、ゾロも母親も半信半疑ながらも、どことなく真っ直ぐなサンジの視線に嘘を見つけ出せず、彼の話を概ね納得してしまった。
曰く、サンジは海賊で、海賊船のコックで。
仲間とはぐれ、気が付くと見知らぬこの街にいたのだと言う。
その、仲間とはぐれる直前に持っていたのが例の銀の懐中時計なのだそうだ。秒針が逆に回るという、店にあるのと同じ物。
何がどうしてこうなってしまったのか、サンジ自身にもさっぱり分からないらしいが、どうもその懐中時計が原因のようだと彼は推測していた。
だからどうしても、あの時計が欲しいのだ、とも。
時計を手に入れたところで何かが起きるとも思えなかったが、サンジが熱心にそう話すので、ゾロは一応のところ頷いてあげた。
ゾロももちろん、サンジの話を鵜呑みにしたわけではない。彼が事故か何か災難に遭って、記憶が一時的に混乱している可能性が一番高いとも思っている。
しかし病院に連れて行くには彼は元気すぎたし、不審者だとか、頭が少し弱いのかと思うには、彼の話には一貫性がありすぎた。
その話を気の毒そうに聞いていた母親が、そんなに欲しいならあの時計をあげようかと言い出したが、意外なことにサンジはそれを固辞したのだ。そんなところにも、何故だか彼の人間性が表れているような気がして、ゾロも母親もついつい絆されてしまう。
あの時計はあくまでもこの店の売り物であって、だから手に入れるためには買うしかないのだ、とサンジは言った。
店の経営難を彼が知るはずもなかったが、その言葉が優しくしてくれる母親に対する彼なりの感謝の気持ちなのだとゾロには分かった。
買うためには、金がなくてはならない。
サンジが持っていたのは、見たこともないベリーという名の通貨数枚で、ゾロにとっては玩具銀行の金のようなものだけだった。
サンジは困って、何か稼ぐアテがないかと考えを巡らせていたが、こんな不審人物を招き入れる店は寂れた時計屋くらいなものだろう。
サンジの誠意に少し情を動かされていたゾロは、仕方なく、といった体裁で彼に職を紹介してやった。
それが、サンジが雇ってもらえたという、同じ商店街の洋食屋なのは言うまでもない。
そこの主人は大らかというか大変大雑把な人物で、しかし心底人が良く、ロロノア家も何かと良くしてもらっている。父親がなくなったときには葬儀委員長を引き受けてくれたし、その後も何くれとなく時計屋を訪ねては、やれ店の時計が壊れただの、腕時計を買い換えたいだのと、仕事を持ち込んでくれるのだ。
そんな主人のいる洋食屋は、味もサービスも絶品で、母親もゾロも義理ではなく足繁く通う常連なのだった。
ゾロが人を雇ってもらえないかと電話をすると、細かいことはいいから連れて来いと予想通りに答えてくれて、朝一番で訪ねたサンジを快く雇ってくれたらしい。ありがたいことだ。
浮かれて母の手を取るサンジに、

「おい、時給はいくらだ」

と問うと、サンジはガッツポーズをしながら、

「七百エン!」

と得意げに答えた。
彼が十八万円もするあの時計を手に入れるのは一体いつのことなのか。そしてもしかしたらそれまでウチに居つくつもりかと、ゾロは少々の頭痛を覚えたのだった。





そして一週間が経ち、一ヶ月が過ぎ。
サンジの時給は驚くほどにアップしていた。
彼は大変真面目に働き、夜も明けぬうちに仕事へ出かけて、昼過ぎに一度時計屋に戻った後、深夜までまた洋食屋で腕を振るっていた。
最初は雑用として雇われていた彼は、次第にスープを作り、サラダを手がけ、洋食屋のトップメニューであるオムライスまで任されるようになった。
寂れた商店街の洋食屋は、みるみるうちに行列の出来るレストランに変わり、人情深い主人は、一体アイツは何者だ、どこか名のあるレストランのシェフに違いない、と目尻を床まで下げながら時計屋に来て、店用に高価な掛け時計を二つも買って行ってくれた。
サンジは昼過ぎの休憩で時計屋に戻ったときにも、ゾロたちの夕飯を作っていた。それどころか、あんなに早くに出て行くくせに一体いつ作ったのかと思うような朝食も、ゾロが起きてくると用意されているのだ。
痩せていた母親は、徐々に昔のように頬に肉が付き始め、太って仕方がないけれど美味しいから、と幸せそうにサンジが作った料理を食べている。たくさん食べるせいか体力も随分と付き、笑顔も見違えるようになった。
元気なオカミさんのいる時計屋は、相変わらず寂れていたけれど、少し、ほんの少しずつ、店を訪ねる客が増えたように思うのは、店の売り上げが物語っている。

「息子が二人できたみたいで嬉しいわ」

そんなふうに、母親は言った。
あれ以来居ついてしまったサンジは、いつの間にかロロノア家に溶け込んでいて、母親とも仲良くやっている。たまの店休日には時計屋を手伝い、母親の肩を揉み、クルクルとよく働いた。
日払いで貰ってくる給料はそのまま母親に渡し、半分は懐中時計の積み立てに、もう半分は生活費にと。
その額は、今や時計屋一日の売り上げよりも多くなっていて、母親は余剰分を時計の積み立てに回してやっていた。
サンジが来てからというもの、何だか何もかもが上手く回りだしていて、ゾロはおかしな気持ちになることがたびたびある。
それはサンジが、いとも容易く母親を笑顔にしたせいかもしれないし、景気良く稼いでくるせいかもしれなかった。
嫉妬、対抗心、敗北感、苛立ち。
突然現れて、わけの分からないことを抜かしたこと以外は、サンジは極々、真っ当で真っ直ぐな人間で。
手に職を持ち、よく働き、よく笑ってよく喋って。
何ひとつ敵わないと思う自分が情けなく、焦り苛立ちばかりが募る。
大学を辞め、剣道を辞め、母親のために店を何とかしようとしてきた自分がバカみたいに思えて、しかし結局何ひとつ変えられなかった自分が悔しくて悔しくて。
サンジのように誇れるものが何もない。
その圧倒的な事実の前に、ゾロは苦虫を噛み潰すしかなかった。





「なァ、この辺に海はあるか?」

久し振りの休みに、サンジはそう言った。
その日は洋食屋も時計屋も休みが重なり、婦人会に出掛けた母親を見送った後、ゾロはサンジと、何を話すでもなく家でゴロゴロしていた。
胸の中で燻り続ける悔しさに、ゾロは自分でも子供っぽいと思いながらもサンジと喋る気にはなれず、ゴロリと寝返りを打って、彼に背を向けた。

「ンだよ愛想がねェな。クソマリモそっくりだ」

サンジの声は明らかに独り言で、呟いた後に彼も黙り込んでしまった。
クソマリモ、とは誰のことだろう。
ゾロはサンジがここへ来た時に話したことを思い出す。

『仲間と一緒にグランドラインを渡ってた』

クソマリモとは、仲間のことだろうか。
グランドラインだなんて聞いたことも見たこともないが、サンジが何を求めて、どんな仲間と船に乗っていたのか、少しだけ気になった。
サンジがここへ来て随分と経って、彼の振る舞いを見るうちに、ゾロは何となくではあるけれども、彼が話していたことは本当だったのではないかと思うようになっていた。
突飛で実にバカバカしい考えだが、もしかしたらゾロが今いる世界とは別の世界があって、そこにはグランドラインという場所があり、海賊が名を馳せるために航海を続けて……
そんな情景を思い浮かべて、ゾロは心惹かれた。
狭くて息苦しい寂れた時計屋。それはゾロにとっての現実で、けれどサンジの現実はもっと輝くような、鮮烈なものなのだろうか。だからこそ彼はあんなにも強くいられるのだろうか。
背後でサンジがマッチを擦る音がした。
彼が吐き出した白煙が流れ、ゾロの目の前を通り過ぎていく。

「テメェさ、いつまで燻ってるつもりなんだ?」

ほんの世間話のようにサンジが呟く。

「テメェの顔な、つまんねェつまんねェって書いてあるぜ。初めて会ったときからずっとだ。テメェは俺が知ってる野郎にソックリだけど、でも全然違ェ。だから一目でアイツじゃないって分かった」

サンジは別に咎める様子でもなく、ただありのままを話すように語った。その真っ直ぐな言葉が、ゾロに突き刺さった。

「テメェは結構情深いし優しいし、お袋さんのために何とかしようとしてるのは分かんだ。クソマリモより数倍素直だし、出来もいい。けどな」

クソマリモって奴が自分に似ているという人間だろうか。そいつは、このサンジの前で、どんなふうに過ごしていたんだろう。
こんな、輝くような生き方をしている男の前で。

「テメェは、目が死んでる」

誰だってこの男のようには生きられない。
強くて優しくて厳しくて、人を笑顔にさせられるような、そんな生き方は。
ゾロが答えず背を向けていると、サンジは煙草を消して部屋を換気し、ゾロの正面に回ると胸倉を乱暴に掴んで起き上がらせた。

「な、海行こうぜ」

サンジの瞳が海の色をしていることに気付いたのは、このときが初めてだった。


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