vivid clock 1


規則的な秒針の音は、こうも数が重なると、混沌とした無秩序なものに変化する。
同じリズムで時を刻むはずの時計たちは、個々によって自我を主張し合い、果たしてこの世に、真実正確な時を刻む時計なんてあるのだろうか、とゾロはいつも思う。
しかし正確な時を知ったところで、人間に何の得があるのか。
時の流れ、そして本来目に見えるはずのないそれを形にした時計というもの。
とても無意味な存在だ。
そして、そんな時計を売る店の子倅である自分もやっぱり、無意味だと。
ゾロは表面上だけの店番をしながら、客の居ない閑散とした店内で、数多の時計が偽物の時を刻む音に身を任せていた。



「ゾロー、ご飯よ」

店の奥から顔を覗かせた母親は、昨日よりも少しだけ痩せたように見える。
昨日は一昨日よりも、一昨日は一昨昨日よりも。
そのうちに減る肉などなくなって、そのまま静かに居なくなってしまうのではないかと思うほどだ。
耳に張り付いた秒針の音を振り払って、ゾロは温かな匂いの漂う店の奥へと席を立つ。
暖簾の先の小さな卓袱台には、ささやかでも手の込んだお袋の味が湯気を上げてゾロを待っていた。

「美味そうだ」

ゾロのそんな一言で母親はとても嬉しそうに笑うので、以前は言おうと思いも付かなかった優しい言葉たちを、ゾロは自然と口に乗せるようになった。
家に帰れば「ただいま」と。洗濯してくれたシャツに着替えて「ありがとう」と。
「いただきます」「ご馳走様」「美味かった」。
父が亡くなるまで、そんな当たり前のコミュニケーションも取っていなかった自分に気付いたとき、ゾロは愕然としたものだ。
母親が日に日に痩せていくのは、父を失った心労からだけではなくて。
今までの自分の行いのせいでもあるのでは、と。
それからは、感謝の言葉や当たり前の挨拶を心掛けるようになった。
そんなことくらいしか、ゾロには出来ることがなかったから。

「ね、ゾロ」

母親は綺麗に盛り付けた茶碗を寄越しながら、遠慮がちに言う。

「剣道、続けていいんだよ」
「またその話か」
「母さん、アンタから何も取上げたくはないの。今まで通りにしてほしいのよ」

寂しそうに瞼を伏せた母親に、ゾロは無言で箸を使い続けた。
今まで通りになど、出来るわけがない。
二ヶ月前、父親が突然この世を去ったときから、ゾロは決めたのだ。
それまで知るはずもなかった、実家の店の経営難。
家計は逼迫していて、のうのうと大学へ通っている場合ではなく。
気落ちした母親と、傾いた古い時計屋を抱えて、ゾロは大学を辞めた。
同時に、生き甲斐であった剣道も。
これまでの十九年間、好きに生きてこれたのは、この母親のお陰であり、死んだ父親のお陰で。
少し早いが、その恩を返すときが来たのだと、ゾロに迷いはなかった。

「ごっそうさん。美味かった」
「ゾロ」
「店閉めてくる」

そのゾロの決断こそが、母親を寂しがらせていることに、ゾロは気が付けないでいた。
心の底で燻り続ける何かを無視して、自分の全てを捨てることでしか、ゾロは恩を返す方法を思い付けなかったのだ。



ゾロが店に戻ると、一人の男がカウンターのガラスケースの前に座り込んでいた。
安価な掛け時計や目覚まし時計ばかりの店内で、唯一、少々値の張る腕時計などが置かれた鍵付きの陳列ケースだ。
男はゾロが戻ってきたことにも気付かず、ブツブツと何か呟きながら熱心にケースを見ていた。

「…間違いねェ…これだよな…うん、これだ」

男はガラスケースにベタベタと指紋を付けて、物欲しそうに続ける。

「十八万…エン?エンって何だよそれ通貨?」

金髪の若い男だった。意味不明なことを呟いては、頭を抱えている。
客なら手荒くしたくはないが、どうも、この男は胡散臭い。
こざっぱりとしたシャツとスーツに身を包んでいるものの、外見では人は判断できないことをゾロはよく知っていた。

「すいません、もうカンバンなんで」
「ア?」

ゾロが上から声を掛けると、ようやく男は我に帰ったようにゾロを見上げ、驚いたように立ち上がった。
熱心に何を見ていたのかとケースに目をやると、この店で唯一の懐中時計の前に指紋がベタベタ。
こんなもの今時誰が買うのかと、父親が満面の笑みで仕入れてきたときに眉を顰めたのを思い出す。

『ゾロ、コイツはな、特別な品なんだ。あんちーくなんだが、不思議なもんで』
『アンティークだろ』
『細けェこと言うな。見てみろ、コイツの秒針。逆に回るんだ』
『ただの不良品じゃねェか』

長針と短針は正確に時を刻むのに、秒針だけが何故か逆回転する銀の懐中時計は、無論買う物好きなどいるはずもなく、半ば父親のコレクションとして長い間このケースの中にあった。
近くに大型のディスカウントショップが建ったせいか、腕時計のベルトや電池の交換くらいしか仕事のない寂れた時計屋の親父の、唯一の自慢の品だった。
金髪の男はどうもこれがお目当てらしい。
胡散臭い奴は欲しがるものまで胡散臭いとゾロは思って、変な輩は追い出すに限ると判断する。
もしこれが売れればかなりの儲けだが、あの時の父親の笑顔を思い出すと、おかしな奴に売る気にはなれなかった。

「もう店仕舞いなんで、今日は」

ガラスケースに布をかけ、金髪に構わずレジを精算して、微々たる売り上げを奥の母親に届けて。
シャッターを下ろそうと再び店に戻ったときも、金髪はまだそこにいた。
目を見開いて、食い入るようにゾロの顔を見ている。
まだ帰らない不審な客にゾロは思いっきり顔を顰めて、シッシッと手を払った。

「カンバンだって言ってんだろ。用ならまた明日にしな」

自分が客商売に向かないことは先刻承知だが、こんな不審者にまで諂う必要などない。
強引に金髪の背中を押して、ポイと店の外に放り出した。
金髪は為されるがまま店を出たが、ゾロがシャッターを下ろそうとしてもまだ外からゾロを見ていた。薄気味が悪い。
明日来いなどと言ったのはマズかった。明日の昼間は母親が店番なのだ。
予定を変更して明日も自分が店番をしようと思い直し、ゾロはシャッターをピシャリと閉めた。
直前、何故か金髪が自分の名を呼んだ気がしたが、きっと気のせいだ。





翌日、朝十時に店を開けたときにはもう、金髪は店の前に立っていた。
もしかしたら昨晩からずっといたのかもしれない。
これはもう警察に突き出すべきかと、ゾロは金髪に近付いた。
が。
ゾロが近付くよりも早く金髪はゾロに駆け寄り、ゾロの胸倉を掴んでジッと目を合わせてきたのだ。

「何だテメェは」
「ゾロだよな?」
「ああ?」
「ゾロだけど…ゾロじゃねェな」

恐ろしく真剣な顔で金髪が自分の名を繰り返すので、ゾロは掴まれた胸倉を剥がし、金髪を突き飛ばした。

「何で俺の名前を知ってやがる」
「…ゾロって名前かお前」
「テメェが連呼したんだろうが!」

ゾロの大声に奥から母親が出てきて、心配顔でこちらを見ていた。

「お袋、警察呼べ警察!」
「お客様じゃないの、ゾロ」
「不審者だ、構わねェ!」
「誰が不審者だ!」
「テメェだ!」

突き飛ばした金髪はモノともせずに再びゾロの胸倉を掴み、凶悪な顔でゾロを睨みつけてくる。
しかし、その目はどこか必死で、真剣だった。

「…何だか困ってるみたいじゃないの。中に入ってもらったら?」

人の良い母親がそうゾロに告げると、金髪は藁をも掴むといった風情でその言葉に飛びつき、母親に満面の笑みを。

「ああ、なんて優しいマドモアゼル!」
「まどもあぜる…」

聞き慣れない言葉に母親は不思議顔を傾げたけれども。
お入りなさいよ、ウチの子が乱暴にして悪かったわね、と金髪を招き入れてしまった。
もしこの金髪が本当に不審者でも泥棒でも、ゾロがいるんだから心配ないと母親の信頼の目が語る。
確かに、その通りだけれども。
ゾロは何だか腑に落ちぬまま、金髪の背中を追って店内へ戻った。
金髪のあの必死な瞳と、物好きにもあの懐中時計を欲しがっている理由と。
そんなものがほんの少しだけ、気になったせいもあって。





店じゃ落ち着かないだろうと母親が気を利かせて、金髪はとうとうロロノア家の居間にまで入り込んだ。
おとなしく出されたお茶など啜って、しっかり馴染んでしまっている。

「何でまた、あんな時計が欲しいのかねぇ」

母親が煎餅を出して金髪の向かいに腰を下ろすと、ゾロは居場所に困って、仕方無しに金髪の隣に胡坐をかいた。何かあったときにすぐ、母親を庇えるように。

「ちゃんと話せ。名前と住所、職業」

職務質問をかける警官のようにゾロが厳しく問うと、金髪は一瞬困ったような顔をして、それでも思い切ったように話し出した。

「優しいマドモアゼルに誓ってウソは吐かねェ。けど、信じてもらえるかどうか」
「ああ?」
「…名前は…サンジ、だ。職業はコック」
「まぁ、コックさんなの」
「コックで…海賊だ。住所は不定」

その言葉に、ゾロも母親も動作が止まった。
もう二十一世紀。平和でダレ気味の、不況な日本。
そんな所に、海賊など。

「つまんねェウソ吐くと追い出すぞ」

ゾロが片膝立てて金髪に詰め寄ると、サンジと名乗った彼は、不服そうに唇を尖らせた。

「ウソは吐かねェって言ったろ。俺は海賊で、海賊船のコックをしてた。グランドラインを仲間と渡ってたんだ。なァ知らねェか?羊の船首の船をよォ」

サンジの目は極々真剣で、ゾロをますます混乱させた。

「…お袋、警察じゃなくて救急車呼べ」
「これゾロ!」
「どう考えてもオカシイだろコイツ」

サンジは何だと!と威勢良く立ち上がりかけたものの、何処からか空気が漏れたようにプシューッと力が抜け、特徴的な眉毛を心底困ったようにハの字に下げた。

「…なァ、ここは一体どこなんだ?」

ゾロと母親は揃って顔を見合わせ、やっぱり必要なのは救急車かと首を傾げた。


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