Whose turn is it? ≪4≫ |
「ゾロ。もう一度、お前が振る番だ」 ルフィの声色は、彼が感情を押し込めている時に発される、低く静かなものだった。 羽交い絞めにされていたゾロは、熱が引くように肩から力を抜き、ゆっくりと息を吐き出した。 「俺はあと…何マスだ」 「14マス。一回じゃ無理ね」 呆然とガラス玉に見入ったままのナミの肩を抱きながら、ロビンは返した。 極めて冷静な、いつもの彼女の声。しかし僅かに震えていたことに、気付いた者はいない。 全員が、激しい動揺と憤りを感じていた。 一体、サンジはどうなってしまったのか。 知る術はなく、為す術は…サイコロを振ることしかない。 「ゾロ…あんた、サンジくんが好きだったのね」 現実逃避か、ナミが力なく笑うと、ゾロは肯定も否定もせずに、再びサイコロを握り締めた。 振れば振るほど、困難な状況を呼び起こすサイコロ。 振れば振るほど、ゲームを中断できなくさせるサイコロ。 2つの小さな立方体は、ゾロの拳でカラカラと鳴り、早く次の悲劇を起こせ、と催促するようだった。 最短で上がるには、今、ゾロ自身が再びゾロ目を出し、次なる悲劇を甘んじて受け、そして再度サイコロを振るしかない。 最低でもあと一回は、何かが起こる。 次は自分が死ぬかもしれない。 船が大破するかもしれないし、信じ難い恐怖に襲われるかもしれない。 しかし、困難を避けては通れないのだ。 何としても上がりを出し、こんな悪夢から早く目を覚まさなくては。 ゾロは、やはり神に祈ったのが間違いだったと考えを改め、自分だけを信じて賽を振った。 結果は、3と4。 絶望した。 "天の恵みは何処にも等しく降り注ぐ" 文字が浮かび上がるが早いか、辺りに暗雲が立ち込める。 空に、ではない。 船内の、キッチンに。 「嘘でしょ…スコール…スコールが来る!」 ナミが叫ぶと同時に、室内に発生した不吉な雲から、矢のような雨が降り始めた。 「きゃああ!」 瞬く間にキッチンは水浸しとなり、水圧でドアが壊れ、甲板へ水が溢れ出す。 それでも排水が追いつかないキッチンは、見る間に水かさを増し、気付いた時には胸まで浸かるほどになり。 ウソップが咄嗟に機転を利かせて、すごろく盤とサイコロを確保し、最悪の事態だけは免れたものの、水の重みで船体は更に傾いた。もう、立っていることさえ困難なほどに。 「沈む…沈むぞ!」 ゾロがチョッパーを抱きかかえ、咆哮した。 「貸せ、ウソップ!」 ルフィはウソップからサイコロと盤を奪い取ると、一刻を争うといった速さで、賽を振った。 目は、5と4。 「今度は何!?」 ようやく降り止んだ豪雨に息吐く暇もなく、ガラス玉には次なる試練。 "己の保身と盟友の命。心の秤はどちらに傾く?" 「俺だ!俺を連れてけ!!」 ルフィだけがその文字を読み、叫び。 呪われたすごろく盤を、ウソップに押し付け。 命より大切だと笑った麦藁帽子を、ナミに投げて。 クルー達は何が起こったのか分からぬままに、キッチンに溜った大量の水が、濁流となってルフィを押し流すのを見ているしかなかった。 「ルフィ!?」 「何とかしろ!お前らなら出来る!!」 そう叫んだときには、もうルフィの体は船首まで流され。 そのまま、為す術なく、海へ消えた。 それは彼の死を意味した。 「待てよ…こんなの、ありかよ…」 「まだ間に合う!助けに行く!」 「いいえ、剣士さん」 飛び出そうとしたゾロの体を、ドアの残骸から生えた手が止めた。 「終わらせなきゃ、何も変わらない」 「だが!」 「そうだ、ゾロ!ゲームが終わらなきゃ、どっちにしろ俺たちは全滅だ!」 船はどんどん傾いていく。 もう、船尾が海面に届いているかもしれない。 浸水が始まる前に。何としても。 ウソップは、ルフィから受け取った盤を引き寄せ、まだ彼の温もりが残るサイコロを握った。 「もうヤケだ!何でも来やがれ!」 振られたサイコロの目は、1と6。 ウソップは震える手でサイコロを拾い、ナミに投げた。 「持ってろ!俺がどうなっても、次はお前が振るんだ!」 "蛇女の呪いには、乙女のキスでも打ち勝てない" もう、文字を読む者はいなかった。 現実に、目の前でこれから起こる出来事に、予言など必要なかった。 「もうイヤァァ!!」 ナミは蹲り、麦藁帽子を抱き締める。 ガラス玉から発した光は、恐ろしいメデューサに姿を変え、ウソップを捕らえた。 そして彼は。 言葉もなく、石になった。 「怖い!怖い!ルフィ!ルフィ!!たすけて!!」 ナミが半狂乱で泣き叫び、ロビンは顔を手で覆って沈黙する。 チョッパーは涙をボロボロと流しながら何度もウソップの名を呼び、ゾロは拳を床に叩きつけた。 「なんで、こんなことに…!」 船が傾ぐ。 斜めになった床の上を、ウソップの石像がゴロリと音を立てて転がった。 今、ゲームを上がれる見込みが最も高いのは、ゾロだ。 彼の龍の駒は、ゴールのガラス玉まであと7マスの位置まで来ている。 早くゾロまで順番を回さねばならない。 しかし。 ナミは、首を激しく横に振り、握ったサイコロを決して離しはしなかった。 「もう振りたくない!怖い!こわい!」 床に突っ伏し、サイコロを固く握り込んだ拳を、胸に当てて。 麦藁帽子に顔を埋めるように、ナミは泣いた。 恐ろしくて、悲しくて、苦しくて。 たすけて、たすけて、と繰り返し心で唱えた。 「航海士さん、時間がないわ」 立っていられなくなった床を、這うようにしてロビンがナミに近付いた。 まだ、ゲームは続いている。誰かが上がらねば、永遠に終わらない。 そして今、彼らに圧し掛かる現実は、仲間を見失ったまま船諸共心中するか、悪夢を何とか断ち切るか。 2つに1つ。 「イヤ…よ…」 涙でグシャグシャな顔を上げたナミと、ロビンの目が合う。 微笑みの形に動いた唇が、優しく、厳しく囁いた。 「ナミ」 初めて呼ばれた、その名前。 しっかりしなさいと、たしなめるように。 ナミは唇を血が出るほど噛み締め、叩きつけるように、賽を振った。 そして、賽の行方も見ないまま、再び蹲ってしまう。 飛び散ったサイコロのひとつは、ゾロの足に当たって止まった。 もうひとつは、ウソップの石像の手元に。 6と、5だった。 最早、溜息を吐く者すらいなかった。 "究極の選択。求めるのは一時の休息か、はたまた永遠に続く翻弄か" 「ナミ」 今度はゾロが、その名を呼んだ。 顔を上げさせ、選べ、と。 ゲームを続けることを。 翻弄されてもそれに打ち勝つことを、選べと言った。 しかし。 浮き上がった文字に救いを見出したのか、ナミは。 小さく、小さく、呟いた。 「ごめん…もう、やすみたい…」 「ナミ!」 「航海士さん!!」 一瞬の出来事だった。 ガラス玉が光り、その光がナミを包んだ瞬間、彼女は眠るように崩れ落ちた。 チョッパーが慌てて駆け寄り、不自由な豚足で苦労しながらナミの手首を取り、青褪める。 「ナミ、冷たいよ…」 まるで生きた人間を急速冷凍したような。 これは仮死状態だと、チョッパーは呻いた。 「この、バカ女…!」 「それで楽になったの?航海士さん…」 奥歯をギリギリと噛み締めたゾロの横で、ロビンが痛そうに顔を歪めて、ナミの髪を梳いた。 とうとう、3人になってしまった。 まだ1マスも駒を進めていない、豚の姿のチョッパーと。 残り7マスだが、正気を見失いかけ、焦燥したゾロと。 ゲームには不参加の、ロビンと。 明るく騒ぐ者はなく。 船に指示を出す者もなく。 腹の虫を鎮めてくれる者も、いない。 絶望。 船の木材が軋む、ギーという音だけが無音の空間に流れ。 遂に、船尾から浸水が、始まった。 →next |