1.船長室
ルフィは、船長室の存在を喜んだくせ、ちっともその部屋を使おうとしない。 新しい船にはGM号を遥かに凌ぐ数の船室が用意されていて、望めば各々個室とまではいかなくても、二人部屋くらいには割り当てられそうな贅沢な造りである。 中でも船長室は一番場所も良く間取りも広くて、使わないなら私に頂戴とナミは何度かルフィに申し出ているのだが、ルフィは頑として首を縦には振らない。 そのくせ、その部屋で時間を過ごすことはほとんどないのだった。 大抵は、緑の広がる甲板でウソップやチョッパーと遊んだり、新しく仲間になった船大工の仕事を眺めていたり。芝生と同化して存在が薄くなっている緑髪の剣士の前で、「あれ、ゾロどこだ?」などとふざけたりしている。 船首に座ることはなくなった。 メリーじゃないからなのか、それとも単にライオン船首は尖っていて座りにくいからなのか。その理由は誰も知らない。 釣りをすれば生簀に獲物を放り込み、観賞する暇もなくサンジに調理をねだる。 ドッグを覗いたり、医務室で昼寝をしてみたり、見張り台で島影を探してみたり。ルフィは何くれとなく動き回っている。 そんなルフィの様子を見て、メリーに乗っていた頃はもっとひとつの場所に落ち着いていたのに、とナミは思う。 日がな一日メリーに乗って海を見ていたこともあったし、みかん畑でゾロよろしく昼寝にふけることだってあった。 なのに今は、同じところに数分といられず、ウロウロキョロキョロと船内を歩き回っている。 物珍しいのもあるだろうが、それ以上に落ち着かないのだろう。 この船の持ち主なのに、自分の居場所をいつまで経っても見つけられないようなのだ。 ならば船長らしく、船長室で酒や女など嗜んでみてはどうか。そんなルフィを想像して、ナミは思わず吹き出してしまう。 船長室にひとりでいるのが寂しくて堪らない子供に、酒や女は贅沢品だ。 誰にも船長室を明け渡さないくせに、夜は男どもをひとつの部屋に集めて雑魚寝させ、その中に嬉々として自分も収まるような子供は、まだ当分個室など必要ないのだろう。 折角こんなに船室が余ってるのに、と文句をつけたのはサンジだったか。 それでも誰もルフィに逆らえず、男どもはGM号にいたときよりも更にギュウギュウに狭い部屋に詰め込まれて眠っているのだ。その様子は、まるで打ち揚げられたアザラシの群れのようだ。ある者は顔を踏まれ、ある者は鼾で起こされ。貧乏くさいことこの上ない。 そこで、余った船室が勿体ないと、ナミとロビンは各々個室を貰うことにした。 男どもはどうでも、自分達は広い船内を堪能したいのだ。 ロビンと同じ部屋でもナミは一向に構わなかったけれども、個室の魅力にもまた、抗うことはできなかった。 部屋を分ける作業を眺めていたルフィは、それはそれは不満そうな顔をしていて、手伝いもせずに何が気に入らないのかプイと不機嫌な顔でどこかへ行ってしまったが、ルフィが訳が分からないのは今に始まったことではないので、ナミは気にせず個室に入った。 自分の気に入った家具を置き、船の上では贅沢なベッドとデスク。小さな灯りと温かい飲み物とひとりの時間。 海賊をしていては、中々手にできるものではない。自分は恵まれている。 フカフカのベッドに飛び込むようにうつ伏せて、ナミは暫し波の音に聞き入った。 あの物静かなロビンでさえ、存在を無にすることはできなかったのだ、と本物の静けさを堪能したナミは思う。 ならばロビンにとってナミの存在は、さぞ煩かったことだろう。 どんなに互いの存在に慣れて空気のように思っていても、本当にひとりなのとは違うのだ。 ひとりとは、こんなに静かなものか。 穏やかで、安らぎに満ち、体が芯から弛緩していくような。 こんなにも心地が良いのに、なぜ灯りを消すことができないのか―― ルフィの不機嫌な顔が、ナミの瞼に浮かび上がった。
控えめなノック。 薄く開けられる扉。 静寂を邪魔するそんなものに、ナミはなぜか心の底から安堵した。
「やっぱりひとりは寂しいわ」
気恥ずかしそうに微笑んだロビンの口から、こんな言葉が零れる日がこようとは。 ナミは笑って頷いて、招き入れたロビンの存在を甘受する。 いっそ自分達も、アザラシの群れの仲間に入れたらいいのに。
それはそれで、ルフィの思い通りになるようで、癪なのだけれども。
2.キッチン
カウンター式のキッチンを日常的に使うのは、サンジにとって実は初めてだ。 これまでは、船内の独立した厨房かメリー号のキッチンしか使ったことがなくて、このサニー号の対面型キッチンで最初に料理をしたとき、サンジは妙に面食らってしまった。 クルーの視線が、背中ではなく手元と顔に集まるのだ。 それはどこか気恥ずかしくて慣れなくて、サンジは気付かれない程度にギクシャクと要領悪く料理した。 その日はサニー号での初めての食事で、自然クルー達はキッチンに集まり、次第に多彩になってくる美味しい匂いに鼻をひく付かせて、サンジが「どうぞ」と言ってくれるのを待っていた。 しかし慣れないサンジはいつまで経っても「どうぞ」が言えない。 いつもならすでに煮込みあがっているはずのスープには、まだタマネギが崩れず残っていた。
頼むから、そんなに見ないで。
サンジは内心、自分に注がれる7つの視線から逃げ出したくて堪らない。 料理するのが楽しいのは自分だけで、見ていたって何も楽しくないだろうに。 大体ルフィが悪いのだ。 いつもなら待ちきれずに騒いでサンジに絡んでくるくせに、今日に限って真剣な面持ちでじっと椅子に座り、サンジに注視しているのだから。 船長がそんな状態なので、他のクルー達もなぜか釣られて、じっとサンジの仕事を見つめてしまうのだ。 こんなに見られていては、溜息も吐けない。タバコも吸えない。味見したソースに満足してもニヤニヤできない。 ナミやロビンの視線は嬉しいけれども、男どもの視線よりもどこか厳しい気がして、緊張が増す。 期待に目を輝かせているのは、ルフィとウソップ、そしてチョッパー。気持ちはありがたいが、少々プレッシャーである。 フランキーは、初めて見るサンジのコックらしい姿が珍しいのか、それとも自分が造ったキッチンの使い勝手が気になるのか、妙に真剣に食い入るようだ。 唯一ゾロだけが、特に何の感慨もなしにその場にいるのだが、他に見るものもないのか、ボーっとサンジの動きを眺めている。これはこれで気になって仕方がない。
――ラーメン屋って、こんな感じかなァ…
カウンター式は、実に「店」っぽい。 これまでのメリー号のキッチンが「お母さんの台所」だったのに比べ、格段にプロ根性が試される感じだ。 料理に興味を持ってもらえるのも、期待に満ちた眼差しを受けるのも吝かでないが、どうにも落ち着かない。サンジは派手なパフォーマンスをしながら料理するタイプのコックではないのだ。黙々と、自分のペースで作りたい。なのに見られていると思うと、必要以上にフライパンを煽ったり、用もないのにフランベしたりしなくてはいけない気分になるではないか。 お腹を空かせた子供が足元にまとわり付いてくるのを叱り宥めて、背中を向けて料理する「お母さん方式」が体に染み付いているせいか、サンジは、もしも将来自分が店を持ったときには、カウンター式は絶対に避けよう…などと決意しながらも、できる限り視線など気にしていない振りをして、ひたすら手を動かした。 意識して集中すればようやく没頭することができて、いつもの倍の時間をかけた食事が完成する。 慎重に等分に取り分けて、美しくハーブを飾り、ソースで皿に模様を描いて。 フーッと長く息を吐きながら、ようようキッチンから顔を上げた。 そこには、サンジのその顔を待ち侘びた腹ペコたちがいて、やっぱりじーっとサンジを見つめている。
「お待たせ。どうぞ」
声をかけてやれば、真剣な眼差しは一斉に笑顔に変わった。眩しいほどの、満面の笑み、笑み、笑み。 それからは、いつも通りの賑やかさ。 サンジは給仕をして回りながら、フランキーに耳打ちする。
――キッチン、最高だぜ。
初めてのお客様には、最高のサービスを。
プロのコックたるもの、その内幕は決して悟られてはならないのだ。
3.見張り台
ゾロは、メリー号の狭くて寒々しくて不自由な見張り台を愛していた。真夜中、たったひとりで見上げる暗闇と、見下ろす大海原を愛していた。 それは、他に気を取られるような余計なものがなかったせいだ。 隔絶されたあの場所では、せいぜい月を肴に酒を飲むくらいしか、時間を潰す方法がなかった。 だがその分、得られたものも大きい。 自分と語り合う時間、物事の道理を問う時間、過去を振り返る時間、未来への不安を打ち消そうとする時間。そんなものは、他にすることがない場所でしか得ることはできない。他人がいれば他愛もないお喋りが始まってしまうし、便利が良ければ人は考えることを放棄して堕落していく一方だ。 だから、誰にも何にも邪魔されずに孤独を楽しめたあの場所を愛していた。 ゾロは別段人嫌いでもないし、便利なものを疎むほど老成してもいなかったが、週に1度か2度だけ回ってくる見張りで得られる孤独を愛でるくらいには、大人なのだった。 そんな見張りの夜には、決まってコックが夜食を差し入れた。 いつもは頭に来るほど口の回る男だが、差し入れのときだけは、なぜかゾロの楽しむ孤独を邪魔することなく、フラリと現れてフラリと消える。 もしかしたら、単に眠かっただけなのかもしれない。彼は1日働き通しで、締めくくりの最後の仕事が夜食の差し入れなのだから。しかし美味いと言えば、確かに嬉しそうにはにかむ。その顔すら、見張りの夜を愛するゾロには好ましい。 そんなわけで、誰にも邪魔されることなく晩酌を楽しみながら、暗闇の中で自分に似合わぬ哲学をするのもまた、粋なものだとゾロは思っていたのだ。
それがどうだ。この、サニー号の見張り台の…素晴らしく無粋なことったら。
雨の日も寒い日も日差しの強い日も、窓と屋根が船番を守ってくれる。 緊急事態には、大声で叫ばずとも甲板やラウンジに繋がる伝令管がすぐさま役立ってくれる。 手足を伸ばし寝転がって余りあるソファは、ご丁寧なことに備え付けで、急な高波にだってビクともしない。 いつでも適温に保たれたドリンクサーバーに手を付けすぎても安心な、簡易トイレまで完備されているとは。 ゾロはもう、この見張り台に永住してやろうかと思うほど、この場所が気に入らないのだった。 船の安全を確保するべき見張り台が、こんなに快適でどうする。居心地が良すぎて、うたた寝してしまうではないか。下に下りるのも億劫になって、ここに篭ってしまうではないか。それでも不自由がないのだから、始末に負えない。 この新しい船に乗ってからというもの、見張りを嫌がる者が格段に減った。以前は何だかんだと宵っ張りなゾロが見張りを代わることも多かったが、今はきっちり順番が守られ、8日に1度だけ回ってくる。 それはまぁ喜ばしいことなのだが、問題は、見張りの緊張感が全くもって薄れてしまった、ということだ。 壁や窓に覆われた部屋は、神経を鈍らせる。風を感じ、気配を読み、空気で危険を察知できたメリー号の見張り台と、ここは似て非なるものだ。 夜中でも本を読んだり細かい作業をすることが可能な煌々とした電灯は、かえって敵に目を付けられる諸刃の刃だ。 ここには、孤独も静寂も哲学もない。不便も退屈も感じない。その代わり、風の匂いは吹き抜けない。 快適すぎて、不快なのだ。
「なぁフランキー、キッチンから見張り台まで直結した、小さなエレベーター作れねェかな。手動でいいからさ」
ウソップが企画書をフランキーに持ち込むと、ふたりは頭を突き合わせて、ああだこうだと議論を始めた。
「あったら便利だと思うんだよ。食事をトレイに乗っけてさ。サンジだってわざわざ見張り台に来なくても差し入れできるだろ?」 「支柱の中身をくりぬくのか…強度の問題だな」 「井戸の釣瓶の要領でさ、ハンドル付けて」 「ああ、だったらもっと良い遣り方があるぜ」
話は次第に専門的になっていき、たまたま耳にしていたゾロには理解できなくなってしまった。 しかし、理解できなくとも、ここは反対せねばなるまい。これ以上便利にしたら、何かもう全てがグダグダに堕落しそうな気がする。
「おいお前ら!」
しかし先に口を開いたのは、どこから現れたのかルフィだった。 いつになく顔を顰めて、拗ねたように腕を組み合わせていた。
「んなモンあったら、サンジの顔が見れなくなるじゃねェか!」
眠たそうにトロンとした、あのはにかみ。 孤独じゃなくても、風を感じなくても、楽しみは確かに残されていたのだ。今でも。 ゾロは船長に全面的に同意して、ウソップの手から企画書を奪い取り、丸めてポイする。
「こういうのを野暮っていうんだぞ」
無粋も野暮も、剣士の最も嫌うところ。 たとえ屋根に月夜が邪魔されようが、あの月色の丸い頭が夜食を持って現れれば…それはそれで、また一興。 それを好ましく思っていたのは、どうやらゾロだけではないようだったけれども。
4.電伝虫
サニー号に乗り込んでからロビンが始めたこと。それは電伝虫の観察である。 一般家庭にはまだあまり普及しておらず、通信の基本は手紙である昨今、サニー号のダイニングに備え付けられたそれを、ロビンは物珍しく眺めた。 もちろん、公衆の電伝虫は大きな街なら必ず設置してあるし、ことロビンはバロックワークスにいた時など、電伝虫を当たり前のように使用していたので、今更の感があるのだが、こうして改めて見ていると、こんなに面白く不思議な生物はないと思う。 メリー号に乗っていた頃は、かなり前時代的なカモメ郵便を利用するのが当然で、ロビンもすっかりそれに慣れてしまっていた。そもそも、ロビンには遠方の誰かと連絡を取りたいことなどなかったのだが。 しかし思い返してみると、ロビン以外のクルー達は、そこそこの頻度でカモメ郵便を利用していたようだった。 筆まめなのはナミとウソップで、チョッパーもたまに故郷の女医に短い手紙をしたためていた。 意外なことにルフィでさえも、旅の途中に拾った葉っぱや何をモチーフにしたのか解せぬ似顔絵など、幼稚園児レベルのそれらを故郷の誰かに送ったりしていた。 ゾロとサンジに関しては、投函する場面を直接目撃したことはないのだが、ごくたまに返信なのか彼ら宛ての郵便物をカモメが運んできていたから、コッソリ遠い誰かに旅の空の色を伝えていたのかもしれない。 そんなわけで、ロビン以外のメンバーには手紙を届けたい誰かがいて、それはたまには声を聞きたい、聞かせたい相手なのだろうと思えば、ダイニングの電伝虫の活躍が期待されるところなのだ。 しかしウォーターセブンを出航して5日、初日に珍しがったルフィがイタズラ電話をかけまくり、ナミに殴られ粛清された後は、フランキーが電波の状態を調整する以外に触れられた形跡はなかった。 電伝虫はずっと静かに眠っており、時折サンジがキャベツの切れ端を差し出せば、無意識のうちにそれを咀嚼するようで、まるでルフィだとサンジが笑うのを、ロビンも隣で一緒に笑った。 有難いくらい役に立つくせ、有難いくらい手がかからない愛すべき生物は、ルフィあたりに9人目の仲間だなどと言われても良いだろうに、電伝虫本人(?)があくまでも「物」としてのスタンスを崩さないせいか、驚くほど存在感なく、ダイニングに存在している。 観察を始めて6日目、調整のためか、早速ホームシックなのか、フランキーが島に残してきた子分どもと通信をした後の電伝虫は、微妙に額の辺りがせり上がり、まるでリーゼントのようになって固まった。 そう、電伝虫の最たる面白さは、通信中には相手の、そして通信後には使用した人物の顔に似てくることで、それは使用履歴機能といっても過言ではないほど、如実に痕跡を残してしまうのだ。しかし半刻もするとその表情は薄くなり、再びノーマルな電伝虫の姿に戻るという形状記憶。 ロビンが暇を見つけては観察を繰り返していると、そのうちに表情が薄くなる前の電伝虫に出会うことが多くなった。 ウソップがいつもより浮かれた様子で甲板をスキップしていれば、電伝虫の鼻は長くなっている。 サンジが物憂げに海を眺めてタバコの煙を吐き出せば、電伝虫の眉はくるりと巻いて。 やたらとやる気になって、クルー全員の健康診断を始めたチョッパーがいたなら、電伝虫の鼻は青くなっているのだ。 誰もロビンが電伝虫を観察しているなんて知らないので、きっとコッソリ使用することに成功したと思っているのだろう。 なぜ大っぴらに使わないのか分からないが、ロビンの観察によると、クルー達は手紙の十分の一程度の頻度で、電伝虫を使っているようだ。 しかしいつまで経っても、ナミとゾロだけが電伝虫を使用した痕跡が見つからない。 寡黙な剣士はともかく、クルーの中で一番筆まめで、故郷を愛するこの少女がなぜ受話器を取らないのか、ロビンは理由を知らずにいた。 ある夜、ナミが船室でランプを灯し、真白い便箋に理知的な文字を綴っていたので、ロビンは先に潜っていたベッドから顔を出し、細い背中に声をかけた。
「声を聞きたくはないの?」
これほど頻繁に、熱心に手紙を出しているのだ。声を聞きたくて当然だろう。 通信費がもったいないとか、手紙の方が安上がりだから、なんて言うには、彼女は手紙を書きすぎている。 すると細い背中は凝った背筋を気持ちよさそうに伸ばし、ロビンを振り向かないまま応えた。
「ココヤシ村には電伝虫なんてないの。みんなアーロンが支配してたからね。今は…あるのかもしれないけど、私は番号なんて知らないもん」
ロビンはナミの故郷が「ココヤシ村」というのだと、初めて知った。 その声色はとても優しく明るく、おそらくナミは今、手紙を書いている人物の顔を想像しているのだろう。 愛する人の声を聞くことのできないナミと、手紙すら出す当てもない自分では、どちらが不幸せか――考えるのもバカらしくなって、ロビンは再びベッドに潜った。 もう明日から、電伝虫を観察するのはやめよう。
声を聞きたい相手がいて、声を聞ける番号を知っている。そんな幸せな男たちの表情が薄っすら残った電伝虫なんて、悔しいではないか。
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