ビショ濡れ天使 |
ヤベェヤベェヤベェ… サンジの頭の中では、その3文字の言葉がエンドレスで、もうかれこれ10分以上回り続けていた。 そんな暇があるなら早くこの場を何とかしなきゃ、とか、濡れたズボンが冷たくて気持ち悪いとか、考えはするが。 あまりにも、受けたダメージが大きすぎた。立ち直れない。 サンジは19歳だ。海に出ているのなら尚更、もう立派な大人である。 それなのに。嗚呼それなのに。 この派手なお漏らしは、一体どうしたことなのか。 サンジは狭いユニットバスで途方に暮れながら、ヤベェヤベェと繰り返していた。 コトの経緯はひどく単純なものだ。 翌朝の仕込を終え、一日の仕事を終えた自分のために、温かいコーヒーと、煙草を1本。 ホッと一息ついたところで、お馴染みの尿意を感じて。 ヤレヤレと席を立ち、トイレへ向かって。 いつものように便座の蓋を開けて、ジッパーを下ろそうとした、のだが。 どういうわけか、そのジッパーが噛んで下りない。 焦るうちにシャツまでジッパーに巻き込まれ、もう噛み噛みだ。 オイオイ勘弁してくれよ、と困り顔のサンジはふと、目の前の便器を見てしまった。 開放と言う名の極楽は目の前なのに、己の股間は噛み噛みで、焦る気持ちが一層の尿意を迫り上げて。 人間、切羽詰った時に便器を見ると、余計に尿意が激しくなるものである。 サンジもまた、辛うじて人間の枠に入る生き物だったので、ご多分に漏れず。 急き止める間も手段もないまま、哀れサンジの下半身はビショ濡れになってしまったのだった。 凄く冷たいし。 凄く情けないし。 サンジは未だ噛んだままのジッパーを下ろす方法も考え付かないまま、ユニットバスに立て篭もっていた。 深夜だったのが不幸中の幸いだったか、誰もトイレや風呂を利用しようとドアを叩く者はいなかったが。 それでもサンジは、このまま海に飛び込んでしまいたいくらいには、恥ずかしかった。 下りないジッパー、脱げないズボン。 いっそ鋏でも持ってきて、ズボンを切ってしまいたい。 けれどそのためには、鋏の置いてあるキッチンへ行かなければならず、誰かに遭遇する可能性と、神聖なキッチンにションベン垂れのまま踏み込むことへの恐ろしさで、実行など出来ない。 ユニットバスの洗面台には、ナミが前髪でも切るのか、髪用の鋏が置いてあるのだが、それをこんなことに使うくらいなら自決した方がマシだ。 にっちもさっちもどうにもブルドッグ。 それが今のサンジのおかれた状況だった。 「れ、冷静になれ、俺」 ようやくヤベェ地獄から這い上がった彼は、どうにか証拠隠滅を図る画策を模索した。 ここは風呂場だ。幸いタオルがある。 取り合えず滴る水分だけでも拭き取ってしまえれば、とタオルに手を伸ばしたのだが。 「…ナミさんのしかねェ…」 間の悪いことに昼間、男連中のタオルを全て洗濯してしまっていて。 乾いたタオルはキチンと男部屋に収納してしまったのだ。 自分のマメさが恨めしい。 まさか芳しきナミのタオルでお漏らしの処理をするわけにはいかない。バレたら8分殺しである。その前に、サンジの気持ちが許さない。 どうしようどうしよう。 いっそこのままシャワーを浴びて、全身水浸しになってしまうか。 しかしタオルもない状況で、それは取り返しのつかない事態になる。 どうしようどうしよう。 サンジが頭を抱えて己の保身を図っていると、不吉な物音が外からこちらへ近付いてきた。 足音。 当然のことながら、サンジはパニックに陥った。 もしこれがナミやロビンだったら。 やだーサンジくん、お漏らししてるぅ! あらあらコックさんは、まだまだ赤ちゃんなのね。 想像するだに恐ろしい。舌を噛んで死んだ方がいい。 懊悩する間にも足音は近付き、もうドアのすぐそこにまで迫っている。 もし、男どもだったら。 おもしれー!サンジ、お漏らしか!すっげー! サササササンジ、俺様が特製のおむつ作ってやろうか!? サンジは夜尿症なのか?俺、治療するぞ! オイ、ションベン垂れコック。 とかなんとか。あまりの恥辱に耐えられそうもない。 きっと明日の朝には船中に広まって、お漏らしサンジくんなんて呼ばれるのだ。 幾ら家族とも思い、掛け替えのない仲間だと思っていても。 クールでスマートなのが売りの自分にとって、致命的な大ダメージだ。 もうおしまいだ。 このドアを開くのが誰だろうが、自分の破滅は決定事項なのだ。 サンジは力なくその場にへたれこみ、死刑執行の刻を待った。 電気も点いているというのに、侵入者はノックのひとつもしてこない。 これは、男どもの誰かに決定だ。 明日から恥辱に塗れて暮らす自分へカウントダウンだ。 無情にもドアは開けられ、サンジは蹲った。 もうダメだ。 もう、自分の豊かで楽しく、スマートでオシャレな生活はおしまいなのだ。 「お前、何してんだ」 死刑執行の合図。 宣告者は、ミドリ色のマリモ。 最もタチの悪い発見者だ。レディ達よりも知られたくなかったかもしれない。 サンジは黙って、唇を噛み締めた。 サヨナラ、レディ達。 サヨナラ、格好よかった自分。 今日からお漏らし小僧として、力強く生きていきます。 そんな悲壮な決意を胸にしたとき。 マリモの声が、サンジに届いた。 「オイ、お前…濡れてんぞ」 「ああ…」 「なんだ、水でも零したか」 その手があったか! そう閃いて頷きかけた瞬間、ゾロが怪訝な顔をした。 「…もしかして、ションベンでも漏らしたか」 バレてる。 見事にバレてる。 サンジの破滅はここに決定した。 「……」 「なに呆けてんだよ、オイ、立ってみろ」 「…笑うなら笑え…」 「ああ?いいから立てって」 「俺を笑え!蔑め!辱めろ〜!!」 立派に逆切れしたサンジを、ゾロは無理矢理立たせ、あーあ、と溜息をついた。 「チャック、完全にイカれてんな。鋏持ってきてやるから待ってろ」 ポン、とサンジの頭を叩いて、ゾロはそのまま出て行ってしまった。 なんだなんだこの展開は。 サンジは呆然と立ちすくみ、僅かに稼動している思考の隅で、鋏、鋏、と唱え続けた。 「あったあった。コレでいいよな?」 ゾロが持ってきたのは、甲殻類の殻を剥くキッチンバサミだったけれど。 そんなことはもう、どうでもいい。 このマリモが。世界一アホで意地の悪いマリモが。 揶揄いもせずに、ご丁寧に着替えとタオルまで…! 「ほら切るぞ…って、テメェなに泣いてんだ!?」 泣きたくもなる。 落ち込んでいる時に優しくされたら泣きたくなるのだ。 それもこのマリモに。刀と昼寝だけが趣味のマリモに。 「…う…う…うあー!」 「煩ぇな、泣くなって」 「だって、だってゾロがぁ、ゾロがよぅ…!!」 自分の窮地を救ってくれるなんて。 お漏らしの自分を笑いもせずに世話してくれるなんて。 「黙れよ、みんな起きちまうだろ」 「ぞろーぞろぉぉー!」 ゾロが泣きじゃくるサンジのズボンに鋏を入れ、サンジはとうとうおしっこズボンから開放された。 「脱げたぞ。そのままシャワー浴びちまいな」 ウンウン、と促されるまま、サンジは浴槽へ入り、蛇口を捻る。 すぐに温かいお湯が出て、冷えてしまったサンジの下半身を優しく暖めてくれた。 「この服、捨てるぞ、いいな?」 「ウン…」 「タオル、これ使え。風邪ひくぞ」 「ウン…」 今更ながら、自分の世話を焼くゾロの姿が珍しくて。 サンジは恥ずかしくて、情けなかったけれど、とても嬉しかった。 「…ゾロ」 「あ?」 「このこと、みんなには…」 「あー、剣士は口が堅ぇんだよ」 「…サンキュ」 うっかり、惚れてしまいそうだ。 なんて、なんて大きいのだろう。 ゾロは弱い者には優しい、男の中の男なのだ。 なのに自分ときたら、いつもゾロをマリモ呼ばわりしたりして。 隙あらば喧嘩を売って、罵声を吐いて。 サンジは深く反省し、尊敬と少しの胸キュンな気持ちで、ゾロを見た。 「あ、やべ、忘れてた」 するとゾロはここへ来た本来の目的を思い出したのか、用を足そうとジッパーを下げた。 が。 どうも今日はチャック運が悪いらしい。 ゾロのジッパーも見事に噛んで。 「あー…」 苦闘の末、ジッパーを下ろすことを諦めたゾロは。 男らしく、そのまま用を足した。 「…ま、よくあるこった」 「よくはねェよ!!」 その後、お漏らしコンビがお漏らしカップルになったかどうかは…定かではない。 |
実話。
あの時私は夫の偉大な愛に感動した。