空のひと |
行く人来る人、みんなスーツ姿のオフィス街。 去年の秋にオープンしたばかりの、巨大超高層ビル。 立ち並ぶのは、名だたるブランドショップに有名料理店。 地上52階。 ここは、夢のスカイレストラン。 ゾロがアルバイトとして勤務する東青ビル管理社(株)は、オフィスや商業ビルの清掃管理を担うビルメン会社だ。 大手企業を相手にする仕事も多いので、ゾロとしても安心して入社したのだが、その内情はあまりにズサンでバイト任せな、いい加減さが際立つ会社である。 高層ビルの窓拭きなどという、危険な仕事もその内で、時給がいいので引き受けてみれば、何のことはない、生命保険料を時給から差し引かれるというお粗末さだった。 それでも辞めずに続けているのは、単に他にいいバイト先が見つからないせい。 仕方がないのでゾロは今日も、派遣先の高層ビルへと向かうのだった。 本日の派遣先は、先頃オープンしたオフィス街の一角を陣取る超高層ビルだ。 この仕事を取ってきた営業社員は得意満面だったが、実際に清掃に当たるのはゾロたち兵隊であり、命を危険に晒すのも兵隊なのだ。嬉しくもなんともない。 「お前いつまでビビってんだよ」 窓清掃はふたり一組のバイトで行っており、念のため社員がひとり同行する。万が一事故が起こったときの対処のためだが、付いて来るなら最初から手伝ったらどうだと、いつも思う。 相方は、ゾロと同じ頃にバイトに入ったウソップという若者で、気も良く、朗らかないいヤツなのだが、如何せんビビり屋のため、役に立つとは言い難い。 「いい加減慣れろよ。つーか、辞めろよ」 「ビビビビビってなんかいねェよバカ」 「じゃあこのゴンドラの揺れは何なんだよ」 風もないのに、ふたりの乗った外窓用のゴンドラは、ウソップの足に合わせて頼りなく揺れている。 屋上から、例の社員が降ろすよーなどと呑気な声を上げていて、余計に腹が立つ。 大事なお客様だから丁寧にね、だなんて。 だったらテメェがやりやがれバカヤロー、とウソップがボソボソ言うのに、ゆっくりと下がるゴンドラでゾロは深く頷いた。 このハイテク時代、なぜ窓拭きだけはこんなに原始的なのか。 地上何メートルかだなんて考えたくもないほど高い場所で、ゾロとウソップは命を懸けるにはあまりにも安い時給と、細過ぎる命綱を恨んだ。 開店して暫くすると、ランチをするOLや、外食を楽しむマダム達で店が賑わい始める。 この時間がサンジは大好きだ。 ディナーの時間になると、どうしても客はカップルばかりになって、ストレスが溜るのだ。 だから、このランチ時の、女性同士の小鳥のようなお喋りとシルバーの品良く響く音が、サンジにとって何よりの楽しみだった。 有名レストランバラティエが、このビルの最上階に支店を出して、早半年。 最初は誘いを断り続けたオーナーも、ビル側の執拗な勧誘に遂に折れて、当時本店の副料理長だったサンジが、この支店の料理長に任命されることになった。 グルメ雑誌や観光誌に写真つきで取上げられたサンジは、ちょっとした有名人である。 若くて金髪の料理長目当てで足を運ぶ女性客も多く、サンジはそれを心から歓迎している。 シェフの挨拶を頼まれることも多く、厨房から出て客席へ行けば、黄色い歓声が上がったりして大変気持ちがよろしい。 「料理長のサンジです。本日の仔牛のお味は如何ですかレディ」 白いコックコートに痩身を包んだサンジは、この店の看板で。 今日も何ものにも邪魔されずに差し込む、明るい日差しをいっぱいに浴びた真新しい店内を練り歩く。 窓際の女性4人連れに呼ばれてホイホイと挨拶に伺えば、高級なワインの追加注文。 まるでホストだな、と自分でも思うが、美しい女性に囲まれるのは幸せの絶頂だ。 「ねェ、料理長さんもご一緒にいかが?」 「ああレディ。そのお言葉、出来れば私がコックコートを脱いだ時に、もう一度お伺いしたいものです」 「まぁ、お上手」 オホホ、オホホホ。 上品なレディ達と戯れ、ウェイターが運んできたワインを自らサービスして。 そろそろ厨房へ戻らなくては、と思ったところに。 不審者発見。 「きゃ!」 窓際のレディが愛らしい悲鳴を上げるのとほぼ同時に。 サンジは窓の外に張り付いてヨダレを垂らすキタナイふたり組に、窓越しの蹴りを食らわせた。 ゾロの今日の朝食は、カップ焼きそばとカチカチになった古い米だった。 それを知ってか知らずか、ゴンドラの降りた先には豪奢なレストラン。 窓の向こうはまるで別世界だ。 吹きっ晒しで命懸けの清掃員と。 舌鼓を打つ身なりの良い客達と。 あーこりゃマッチ売りの少女だな、とゾロは我が身を気の毒に思った。 ウソップも同じ心境だったか、長い鼻をべったりと窓に貼り付けて、中を凝視している。 もうすぐ昼食の時間だが、どうせ自分達のメニューはコンビニ弁当である。 財布の都合上、こんな店ではワイン一杯頼めまい。 「ううううまほー…」 「あー…」 暫し職務を忘れ、ふたりは店内に香るのだろう美味しい匂いに想いを馳せる。 知らずヨダレが盛大に垂れたことを、誰が責めることが出来ようか。 しかし。 そんなふたりに、窓の向こうから文字通り飛んできた白い影が、制裁を下した。 「ぬお!」 窓越しのそれは、もちろん彼らに届きはしなかったけれど。 ビビったウソップが暴れたので、ゴンドラは大きく揺れて。 結果、ふたりは見るも無様な姿を、店内の客達に晒すハメになった。 窓の向こうには、苦笑したり、心配顔だったりの客達と。 鋭い視線を浴びせてくる、白いコックの姿。 畜生ゼッテェ許さねェ、とゾロが睨み返せば、コックはフンと鼻で笑って、客達に侘びを入れに踵を返した。 「なんつーイヤミなヤローだ!」 「オイゾロ!揺らすな!あああああ」 あまりにも違う、窓を隔てたふたりの世界。 辞めてやる辞めてやる今日こそ絶対辞めてやる。 カンカンに頭にきたゾロに、屋上から、メシにしよー!の間抜けな声。 あの社員も今日こそボコって、こんな仕事もう辞めてやる、とゾロは息巻いた。 コック風情にバカにされ。 安い時給で命と労働力の切り売りだなんてもうゴメンだ。 大体時給から差し引かれている保険だって、もし自分が死んだ時に受け取るのは誰なんだ。 もうやってられるか仕事は他にいくらでもあるんだよ!…そんな感じで、ゾロは荒れ果てていた。 そして昼食のコンビニ弁当を見て、何だかまたカンカンに頭にきた。 「ゾロ、食わねェのか?」 「食いたくねー」 腹は減っているが、階下では豪華な食事を摂る人間がいるのに、どうして自分はこんな吹きっ晒しの屋上でコンビニ弁当なんだ、と思うと食べる気にならなかった。 あの社員をいつボコろうかとか、いっそこのまま帰っちまうかとか、空腹で胃をキリキリさせながら、ゾロは固いコンクリートの上に寝転がった。 すると。 ポン、と腹の上に何かが置かれる感触がして。 閉じた目を、開いてみればそこには。 「テ…メェ…!」 「ヨウ、ヨダレマン」 金髪を強風に靡かせて、嫌味なコックが笑っていた。 「ひゃー、こんなとこでメシ食ってんのかよ。ご苦労なこった」 「何しに来やがった!」 「ろ、ロロノアくん!その人お客さま…」 「ウルセェ!」 冴えない社員を一喝して黙らせて、ゾロはコックを睨みつけた。 しかしコックは軽くそれを受け流して、ゾロの腹に乗った何かを指差す。 「店をキレイにしてくれる有難い労働者への差し入れだ。午後はしっかり頼むぜ」 ほんわりと温かい、その何かは。 「オオ!弁当!!俺も食っていいのか!?」 「あー、二人前だ。遠慮せず食え」 飛びついてきたウソップに、その折詰めを奪われて。 ゾロは未だ胡散臭いそのコックに目を向ける。 「別に施しはいらねェ」 「施し?んな高級なモンじゃねェよ。窓拭き頼みますよって、ワイロだワイロ」 銜えた煙草に火を点けて。 コックは、笑った。 「おい美味ェぞゾロ!お前も食え!」 ウソップが差し出した折詰めから、オレンジソースの掛かったカモを摘み口に入れる。 驚くほど美味くて、目を剥いた。 見れば、コックはもう店に戻ろうと、背中を向けていて。 「…さんきゅ」 呟いた声が届いたかは分からないけれど。 コックは右手を軽く上げて、屋上を出て行った。 この仕事、もう少し続けてみっか。 サンジはランチの時間が大好きだ。 小鳥のような女性客のお喋りと、日差しいっぱいの店内と。 窓の外には、食事よりもサンジを見詰める、命懸けの清掃員。 1ヶ月に一度派遣されてくるその窓拭きに、サンジはいつも昼食を差し入れる。 そして窓拭きは、窓の外からサンジを見詰め続けるのだ。 超高層ビルの最上階のこの窓は、決して開くことはないのだけれど。 ふたりを隔てる窓の中と外では、あまりに環境が違うのだけれど。 風に揺れるゴンドラで、一心不乱にサンジの店の窓を拭く、危なっかしい空のひと。 窓越しのキスってのも、ドラマチックでいいかもしれない。 最近は、そんなことをサンジは思ってみたりする。 その時は。 鼻の長い相棒が、驚いてゴンドラから落ちないよう、しっかり捕まえてやってやれよな。 地上52階。 ここは、夢のスカイレストラン。 |