生まれたてベイベ


ロロノア・ゾロくんは春から小学生。
けれどランドセルを背負うことや、お友達とお勉強することよりも、4つの頃から通っている剣道の道場で、幼児の部から小学生の部へ上がれることの方が嬉しくてなりません。
楽しみな季節はもうすぐそこまでやって来ていて、ふくらみ始めた桜の蕾が開くのを、ゾロくんは指折り数えていました。
それからもうひとつ、春の訪れが楽しみなのは、お隣に赤ちゃんが誕生することです。
お隣のおばちゃんのお腹は、スイカが丸ごと入っているのかと思うほど大きくて、ゾロくんが小学生になる頃に、待望の赤ちゃんがおうちにやってくるのです。
ゾロくんは賢い子供なので、引き算をしてみました。
ゾロくんの計算によると、赤ちゃんはゾロくんより6つほど年下になるはずで、だから赤ちゃんが大きくなって、小学生になっても、入れ違いでゾロくんは中学に上がっているはずです。
男の子だったら同じ道場に通わせて、憧れの小学生の部で赤ちゃんをみっちり鍛えてやろうという目論みは、この計算の前に虚しく散ってしまいました。
それでもやっぱり男の子ならいいな、とゾロくんは思います。
お外で一緒に遊んだり、剣道を教えたり、兄弟のいないゾロくんは、弟とそんな風に遊んでみたかったのです。
お隣のおばちゃんは、とても優しくて明るくて、少しだけそそっかしい、楽しいおばちゃんです。
おばちゃん、と呼ぶにはまだ若くて、お姉さんと呼んだ方がいいかと、今のマンションへ引っ越してきて初めて会った時に訊いてみたのですが、おばちゃんは豪快に大笑いして、ゾロくんの頭を撫でてくれたあと、おばちゃんでいいのよ、と言ってくれたのでした。金の髪をした、綺麗な女の人です。
おばちゃんは大きなお腹を抱えて、これから生まれる赤ちゃんと仲良くしてね、とゾロくんにいつも言います。
無論、ゾロくんはそのつもりなので、たびたびお隣を訪ねては、大きなお腹を撫でさせてもらったり、お腹の中の赤ちゃんに向かって話しかけたりしたのでした。



その日も、お腹の赤ちゃんと遊ぶつもりで、ゾロくんはお母さんがお仕事へ行くのを見送った後、お隣へ行こうと玄関の鍵を背伸びして閉めていたところでした。
マンションの廊下はとても静かで、音がよく響きます。
ゾロくんはいつもお母さんに、廊下では静かに、と言われているので、なるべく音を立てないように、カチリと控えめに鍵を回していました。
そこへ、思わず飛び上がるような大絶叫が、廊下に響いてきたのです。
ゾロくんはびっくりして、閉めた鍵をはずみでまた開けてしまったりしました。
声は、お隣から聞こえてきました。間違いなく、お隣のおばちゃんのものです。
その只事でない様子に、まさか泥棒でも入ったかと、ゾロくんは一度家へ入り、大切な竹刀を取って戻ると、勇んでお隣へ駆けつけました。
おばちゃんは元気な人だけれど、女の人だし、今はお腹が大きいのです。旦那さんはもうお仕事へ行ってしまったはずですから、ここはゾロくんが守ってあげなくてはなりません。

「おばちゃん!」

いつも開けてあるお隣のドアノブを回しながら、この無用心さでは泥棒も入るなと、ゾロくんは思いました。

「どうした!?」

リビングへ竹刀を構えながら進むと、おばちゃんが白い絨毯の上に蹲っていました。
その様子はとても苦しそうで、ゾロくんは泥棒よりもおばちゃんが先だと判断し、助け起こそうと傍へ走り寄りました。
するとおばちゃんは、薄目でゾロくんを見上げて言いました。

「た、助かった…」

ゾロくんはまだ何も助けてあげてはいなかったのですが、おばちゃんは安堵した様子でゾロくんの手を握り、次に電話を指差しました。

「た、タクシー…、救急車でもいい…」

「きゅきゅうしゃ!?」

「お願い、呼んで…」

「おばちゃんどっかいたいのか!?びょうきか!?」

ゾロくんは大事な竹刀を投げ捨て、おばちゃんの背中を一生懸命さすりました。

「う」

「う?」

「うまれる…」

「えええ!?」

生まれる、とはどう考えてもお腹の赤ちゃんのことでしょうが、聞かされていた予定日まであと1ヶ月近くもあったので、ゾロくんは驚きました。

「痛い…いたーい!」

おばちゃんは我慢の利かない子供のようにジタバタと床を蹴ったり、叩いたり。
これは自分がしっかりしなくてはと、ゾロくんは意を決して、受話器を手に取りました。
タクシーの呼び方などもちろん知りませんから、ゾロくんは緊張しながら119、とプッシュしました。
間もなく電話に出たお姉さんは落ち着いた様子で、消防ですか救急ですかと尋ねてきました。
しかしゾロくんには何が何だか分からないので、とりあえず救急車1台、と注文してみました。
相手が子供だと分かると、お姉さんは口調を更に緩めて、ゾロくんから詳しい話を聞き出しました。

「だからっ、おとなりのおばちゃんがいたがってて、うまれそうなんだ!まだうまれないはずなのにうまれそうなんだ!」

自分でも巧く説明できていないともどかしく思いましたが、優秀な救急車屋のお姉さんは分かってくれて、すぐに救急車を寄越してくれると約束してくれました。
住所は分かるかと訊かれて、ゾロくんは澱みなく、自分の家と同じ住所を告げて、電話を切りました。

「おばちゃん!きゅうきゅうしゃすぐにくるぞ!」

「あ、あり、ありがと…」

おばちゃんの痛がり方はこちらが苦しくなるほどで、今にも生まれてしまいそうです。
救急車が来る前に生まれてしまったらどうしよう、とゾロくんは居ても立ってもいられなくなりました。
それでも一生懸命おばちゃんの背中やお腹をさすって、励まし続けました。いざとなったら自分が取りあげてやらねばという、涙ぐましい決心すらしていました。
だから待望のサイレンが聞こえてきたとき、ゾロくんはドッと体から力が抜け、その場にへたり込んでしまいました。

「もう大丈夫ですよ!」

救急車の隊員さんが駆けつけたときには、妊婦と子供がぐったりと蹲っているという、ちょっと不穏当な状況でした。

「ボクが電話くれたお兄ちゃんだね!一緒に来て!」

放心していたゾロくんは、あっという間に手を引かれ、担架に乗せられたおばちゃんと共に、救急車へ押し込まれてしまいました。

「え、オレ、となりの」

「イイ子だな!お母さんも頑張ってるんだから、しっかり励ましてあげてな!」

「や、だからオレはとなりの」

「ボクもお兄ちゃんになるんだな!楽しみだな!」

バンバンと肩を叩かれて、ゾロくんは目を白黒させながら、とうとうおばちゃんと一緒に病院まで来てしまいました。



おばちゃんはすぐにストレッチャーで運ばれて行き、残ったゾロくんは途方に暮れましたが、辺りを見回すと公衆電話があったので、とにかく誰か大人に連絡しようと思い立ちました。
ゾロくんには困った迷子癖があったので、おかあさんはいつもゾロくんにテレホンカードを持たせています。
迷った時はそこから動かないで、おかあさんの携帯に電話しなさい、と躾けられているので、公衆電話を使うのにも慣れていました。
ポッケから常備している誰かがお土産でくれた「風林火山」と書かれたテレカを出し、受話器を取ろうとしました。
しかし電話は高いところにあって、背伸びをしても届きません。
仕方がないのでゾロくんは、そこにあった電話帳を何冊かヨイショと床に下ろし、それを積み上げて踏み台にしました。
まずはおかあさんに電話です。
おかあさんはお仕事中でも電話に出てくれるので、ゾロくんは遠慮せずにかけられます。
案の定、おかあさんはすぐに出てくれて、また迷子になったのかと呆れていましたが、ゾロくんが事の顛末を告げると、手のひらを返したようにゾロくんを大いに褒めたので、こういうウラオモテのあるキョーイクがコドモをヒコウにはしらせるんだ、とゾロくんは思いました。
ともかくおかあさんがすぐに病院にきてくれることになったので、ゾロくんは安心して受話器を置きました。
それから思い立って、もう一度テレカを電話に差し込み、あまりかけたことはないけれどしっかりと覚えている番号をプッシュしました。
日頃からゾロくんを可愛がってくれて、俺が留守の間は女房を頼むな、とゾロくんを見込んで言ってくれた、お隣のおじちゃんの携帯番号です。
ゾロくんにはお父さんがいないので、おじちゃんは最も近しい大人の男の人です。メガネをかけた優しく笑うおじちゃんの顔を思い浮かべながら、ゾロくんは呼び出し音が鳴るのを聞いていました。
ややあってから電話に出たおじちゃんは、相手がゾロくんだと分かると、声を和らげて微笑むように、どうしたのと訊いてくれました。
そこで赤ちゃんが生まれそうだと告げると、おじちゃんは派手な音を立てて携帯電話を落とし、慌てて拾って、しつこいほど本当か本当かと尋ねてきます。
ゾロくんは頷きながら、今いる病院の名を教えて、早く来るように念を押しました。
お隣のおじちゃんとおばちゃんはとても仲が良くて、おばちゃんもおじちゃんがいないと心細かろうとゾロくんは心配していたのです。
おじちゃんはすぐに行くと言って、電話も切らずに上司の元へ走り、そそそそ早退します、とどもりながら怒鳴っていました。途中で何度か転んだような音が聞き取れて、このおじちゃんこそ無事にここまで辿り着くのかよ、と眉を顰めながら、ゾロくんは電話を切りました。
とにかく役目を果たし、ゾロくんは人気のまばらな、分娩室前のロビーのソファに身を沈めて、ホウと一息つきました。

そのとき、まるでその瞬間を待っていたようなタイミングで、分娩室から大きな泣き声!

「うまれた!」

ゾロくんはソファから飛び起き、分娩室の扉に耳をくっつけました。
とっても、とっても大きな、元気な泣き声。
きっと男の子に違いありません。
ゾロくんは嬉しくて、入ってはいけないと分かっている分娩室へ、思わず立ち入ってしまいました。
中には、精も根も尽き果てたおばちゃんと、優しげなお医者様と看護師さんたち。
怒られると思って身を竦めたゾロくんでしたが、誰も怒ってなどこなくて、微笑ましそうにゾロくんを見るばかり。
そこへ年配の看護師さんが、生まれたばかりの赤ちゃんを連れてきてくれました。

「ホラお兄ちゃん、弟くんよ。初めましてー」

何やらホニャホニャとぐずる物体を、ゾロくんは珍しげに覗き込みました。
待ちきれなくて1ヶ月も早く生まれてきてしまった赤ちゃんは、まるでおサルさんのようで、あの優しげなおじちゃんと綺麗なおばちゃんの子供だとは、とても信じられません。
おばちゃんはおサルの子を産んだのかと思い、おじちゃんはさぞガッカリするだろうな、と心配になりました。

「抱っこしてみる?」

そう言って手渡されたおサルは、小さくてフニャフニャで。
おばちゃんと同じ金色の髪がポヨポヨと生えていて、ゾロくんは抱っこしながら、その髪を撫でました。

「サルみたいだ」

「赤ちゃんはみんなこうなのよ。お兄ちゃんだってそうだったんだから。少ししたら、ママに似て、可愛らしいお顔になるわよねー」

看護師さんが赤ちゃんのほっぺを撫でると、赤ちゃんは気持ち良さそうに、小さな小さな手をニギニギさせました。

「おばちゃん、大丈夫か?」

股を広げたまま、ぐったりと目を閉じたおばちゃんは、ゾロくんの問いかけに、盛大な鼾で返事をしました。

「お気楽なママねー!」

お医者様と看護師さんが大笑いしました。
ゾロくんも心の中が温かくて、嬉しくて、たくさんたくさん笑いました。



そして、桜の花が綻びた頃。
金の髪が生え揃い、開けたお目々が海の色をしていた赤ちゃんは、みんなに愛されてスクスクと育っています。
ゾロくんは小学校に上がり、お勉強や剣道のお稽古に大忙しの毎日ですが、毎日欠かさずお隣へ行って、赤ちゃんと遊びます。
赤ちゃんはゾロくんがとても好きなようで、大泣きしているときも、ゾロくんが抱っこしてあげると嬉しそうに笑います。
くるりと巻いた眉毛も愛らしく、ゾロくんは可愛い弟に夢中。
早く大きくなってもらって、楽しいことをたくさん一緒にしたいな、と思っています。
鬼ごっこに虫捕り、野球やサッカー、もちろん剣道も。
ゾロくんはその日が待ち遠しくてなりません。
自分はお兄さんなのだから、優しく厳しく、何でも赤ちゃんに教えてあげるのです。
赤ちゃんもきっと、喜んでゾロくんと仲良くしてくれることでしょう。
ゾロくんも、おかあさんも、おばちゃんもおじちゃんも、赤ちゃんが大好き。
可愛い可愛いみんなの赤ちゃんのお名前は、サンジくんといいます。




すごく私らしくない作風だと思う。