彼岸の青 |
最初に瞼の裏を掠めたのは、見慣れたルフィの顔だった。 それは全開の笑顔ではなくて、掴み所なく自己の世界を形成している王者の顔。 前を見据えて、唇を軽く閉じて。 瞳だけが少年のまま、楽しげに輝いている顔だった。 次に脳裏に映し出されたのは、白い刀。 ゾロ自身が今こうして地べたに這い蹲っている理由であり、切欠である、全てを内包した刀だ。 それはボンヤリと少女の姿に形を変え、その少女が笑っていることを認識して、ゾロは安堵する。 それからは、ハッキリとした映像にはならないものたちが、次々と瞼に浮かんでは消えていった。 息を呑むほど鮮やかなオレンジ、賑やかな笑い声、酒の味、波に揺れる感覚。 死ぬって言うのはこういうものか。 血が流れ出す傷の痛みも他人事のようで、ただただボヤけた映像が漠然と映し出されて。 楽しかったなぁ、とか。 思い残すことはねェなぁ、とか。 それこそ死の境地で、ゾロは自分が微笑んでいるのが判った。 そして、そんな愛しい映像たちも次第にブレて消えていき。 これが最期なんだと、深く細い息を漏らしたゾロの瞼の裏に映ったのは、真っ直ぐな、青。 これは何の色だったかと考える力はすでになく、けれど最期に見たものがコレで良かったと心穏やかになって。 悪くねェ一生だった。 その青が次第に黒くなり、白くなり。 意識が遠のくのもまた、他人事のようだった。 ナミがその情報を嗅ぎ付けたのは、1週間ほど前だった。 彼女は興奮するでもなく、かと言って沈痛な面持ちでもなく、ごく冷静な航海士の顔でゾロを呼んだ。 「鷹の目の居場所を確認したわ。行くわね」 確認ではなく、決定事項として告げられた事実に、ゾロも異論なく頷いた。 ふたりの遣り取りはただそれだけで、それ以上のハッパ掛けや心配の言葉は一切なかった。 ナミは航海士として、ゾロを目的の場所へ導くために全力を注いでくれようとしている。 彼女のこういうところが好ましく、有難かった。鷹の目と聞いて冷静でいられたのは、彼女のお陰かもしれなかった。 ナミはルフィを呼び、継いで仲間たちを集め、今後の進路を発表する。 突然の知らせに皆が動揺する中、ルフィだけが笑ってゾロを見ていた。 言葉はない。 でも、通じ合う。 ゾロは腰の白い鞘を少しだけ掲げて見せた。 ルフィは満足そうに頷き、また笑った。 自分達は随分と遠くまで来て、大きくなった。 井の中の蛙は、大海に出て王者になる。 ゾロは、ルフィと交わした約束がようやく果たせることに喜びを覚えた。 勝てるか?勝てる。勝つ。 確信めいた予感は意志の力で可能性に変わる。 血が沸き、脳髄が沸騰する。 けれど心は穏やかで、冷静だった。 その晩も、次の日も、そのまた次の日も。 いよいよ明日に上陸が迫ったその夜でさえ。 仲間たちはいつも通りに過ごした。無論、努めて。 ゾロも普段通りに鍛錬をし、昼寝をし、食事を摂って酒を呑んだ。 緊張はしている。 自分だけじゃなく、誰もが。 食事時、ウソップが場を和ませようと大ボラ話をする。笑いが溢れる。 けれど誰かがスプーンを落とせば、全員がビクリと身を震わせた。 信じている。信じられている。だけど。 沈黙が落ちると、コックが自然な素振りでスプーンを変えて寄越し、何事もなかったかのように食事は再開された。 そんな張り詰めた夜も、今日で終わりだ。 明日になれば上陸して、ゾロは鷹の目に対峙する。 明日の夜には宴か、葬式か。一番可能性が高いのは自分が手術中だということかもしれないな、とゾロは思って笑った。 勝てる。勝つ。 そのために自分は今、ここにいるのだから。 「今夜くらいは見張り代わってやるよ」 見張り台に姿を現したコックは、強い風に髪を煽られながらゾロに言った。 「テメェのことだ、キンチョーして眠れねェなんてデリカシーは欠片もねェだろ」 だったら寝ておけ、とコックはゾロの横に腰を下ろし、ぞんざいに足でゾロに下りるよう促した。 確かに眠れないことはないだろう。だが、寝たくない夜もあるわけで。 自分から今夜の見張りを買って出たゾロは、コックの申し出に眉間に皺を寄せた。 「いい。ひとりで居てェ」 「遺言でも作ってんのか」 「必要ねェ」 「思い残すことはナシってか。立派なこった」 コックは持ってきたワインのコルクを歯で引き抜いて、そのまま呷った。 普段グラスを使えと煩いこの男にしては、荒っぽい仕種だ。 「死んだりしねェからだ」 「死ぬことは負けることか?」 「…死んでも勝つ」 コックから瓶を奪い、ゾロも一気にワインを喉に流し込む。 奪われた瓶を取り返すでもなく、コックは煙草に火を点けて、美味そうに味わっていた。 しばらくそうしているうち、ゾロは何だかバカらしくなってその場を立った。 決して今夜は特別な夜ではないけれど。 でもやっぱりゾロにも考えるところはあって、自分が死ぬことを思わないでもないのだ。 明日になってもし万が一死んだとしても、悔いはない。思い残すこともない。 だが、だからといって最後になるかもしれないこの夜を、折り合いの悪いコックと過ごす必要はないのだった。 心静かに明日を迎えたい。ひとりで。この刀と共に。 ゾロが黙って見張り台を下りていくのを、コックもまた黙って見ていた。 そして見張り台からゾロの頭がほんの少し見えるだけになった頃、コックは呟いたのだ。 「好きだ」 ゾロは危うくマストから足を踏み外しかけ、慌てて見張り台の縁に手を掛けた。 そして、遣る方のない怒りが湧いてくる。 どうして、この男は。 こんな夜に、こんなことを。 手を掛けた見張り台の縁を驚異的な握力で握り潰す。 木の砕ける音がして、その破片をコックへと投げつけた。 「よりによって今夜言うな」 「今夜だから言うんだよ」 木屑を払って何でもないようにコックは続けた。 「気付いてたんだろ?このままじゃお互い気持ち悪ィじゃねェか」 「…せめて明日言え」 「やなこった」 どこまでも折り合いが悪い。 こんなにも折り合いが悪いのに、いつの頃からか自分達は妙な感情をお互いに持っていることを知っていて。 その感情に今日まで名前をつけずに居たのは、偏に、明日という日のためなのだ。 世界一になるために、余計なものなど背負わない。 背負っていては戦えないし、散ることも咲くこともできなくなる。 潔さは美徳で、悔いは辱めだ。 だからこそ気付かぬ振りをしてきたのに、この男はどこまで意地が悪いのか。 腹が立つ。心静かで居られなくなる。 これではきっと、剣の切っ先だって鈍るだろう。 「思い残せよ」 コックは満足そうに笑った。皮肉っぽく。 ゾロは腹を立てたまま、マストを下りた。 自分の感情とコックの感情に名前が付けられてしまったが、無理矢理無視することにした。 心残りは剣士の恥だ。 何故だか耳元がバタバタと煩い。 ここはきっと地獄のはずで、自分は頂点に立ったと同時に死んだはずなのだ。 なのに地獄というのは存外煩いもので、何故だか生活臭の漂う音ばかりがするものだと、ゾロは深い意識の中で顔を顰めた。 「…ロ!ゾロ!!」 よく知った声がする。 けれどそんなはずはない。 バタバタ、バタバタ。 自分を呼ぶ声と音。 煩くて寝ていられない。死んでいる場合ではない。 「ゾロ!」 薄く瞼を開けると、眩しい光とトナカイのドアップ。 地獄の鬼ってのは案外カワイイ顔してやがるなァ、とか漠然と思って、ゾロは再び目を閉じた。 「どいてろチョッパー」 この低い声は誰のものだったか。 心地良い低音。聞き慣れた声。 「起きろクソ大剣豪!!」 「サ、サンジ!?ダメだゾロ死にかけてんだぞ!?」 「いつまで寝てんだバカマリモ!」 腹に、死ぬほど痛い衝撃。 …死ぬほど? ゾロはもう一度、今度は意志の力で瞼を上げる。 またしても眩しい光。と。 青。 海の色、空の色、彼の瞳の色。 安堵と温かさと、ほんの少しの馬鹿馬鹿しさ。 「…アア、この色だったか…」 気になっていたことがハッキリして、今度こそ思い残すことはないと、ゾロは意識を手放しかける。 「い、意味不明なこと言い残して気持ちよく死んでんじゃねェよ鼻クソ腹巻!!」 「今夜は宴なんだぞ!俺様が心を込めてサバの味噌煮作ってんだぞ!」 「鉄分補給のためにホウレンソウとレバー祭りなんだぞ!」 「甲板テメェの血だらけで汚ェんだ!起きて掃除しろ!!」 「ついでに今朝テメェがしたウンコ流れてねェぞ!流せ!!」 「…起きろ!」 「死ぬな!」 ガタガタガタガタ煩いことこの上ない。 覚醒する。彼の声に導かれて。 死ぬなといわれて死ぬことは。 剣士の恥だバカ野郎。 ゾロはもう一度あの青を見るために、瞼を上げる。 「宴にサバ煮込みたァ…ちっと地味だなァ」 そういえばあの魚も青かったな、なんて思いながら。 欲しいものが全てそこにある、彼の世界へとゾロは戻った。 まだまだ、エピローグには早すぎる。 |
何だか続きそう。